ソフトウェア開発の思考
属人的な分析から分析工学へ
Definition 1 分析工学
- データ分析・統計モデル構築・意思決定支援を再現性・拡張性・品質保証・標準化の観点から体系化し,企業が必要とする分析業務を継続的に提供できるようにするためのフレームワーク
企業が保有するデータ量は劇的に増加し,センサー情報・ログデータ・購買履歴・自然言語データなど多様なデータが日々収集されるようになりました.さらにデータ活用を軸としたビジネス変革が強く求められるようになり統計分析や機械学習を使ったデータ分析業務のニーズは年々増大しています.しかし現場では以下のような要因のためこの需要に分析側の供給が追いつかないという深刻な問題が顕在化しています.
| 課題カテゴリ | 内容 | 具体例 |
|---|---|---|
| 分析ニーズの急速な多様化 | 予測だけでなく多様な分析手法が必要に | 因果推論,異常検知,最適化,シミュレーション,デジタルツインなど,手法の専門性が大きく異なる |
| 扱うデータ種類の爆発的増加 | データ形式の多様化により従来手法だけでは不足 | IoT時系列,画像,自然言語,音声,センシングデータなど |
| 分析人材の希少性 | 必要なスキルの幅が広く,個人に負担が集中 | 統計学 × 機械学習 × プログラミング × ドメイン知識を1人で担うのは困難 |
この状況は,1960年代に起きた「ソフトウェア危機」と構造的に非常によく似ています. 当時,コンピュータ利用の急拡大によって「必要なソフトウェア規模が人間の開発能力を超えてしまう」危機が起き,それに対処するためにソフトウェア工学(Software Engineering)という分野が生まれました. これは,ソフトウェア開発を「個人の職人技」ではなく,再現性・拡張性・品質管理を備えた工学的プロセスとして扱うという発想です.
同じ現象が起きつつあるデータ分析現場でもソフトウェア工学の精神に習い,データ分析・統計モデル構築・意思決定支援を工学的プロセスとして体系化するアプローチが必要だと考えます.これを「分析工学」と呼ぶとするならば,
- 分析業務を属人化させず,再現性のあるプロセスにする
- モデルの品質を保証し,組織単位で保守できるようにする
- 異なる分析ニーズを共通のパイプラインと抽象化で扱う
- 拡張可能な分析モジュール群を資産として管理する
- 組織全体で分析を量産可能にする
の実現が分析工学のゴールとなります.
| 目的 | ポイント | 具体例 / 手法 |
|---|---|---|
| 保守性向上 | コードの理解・修正が容易になる | ・命名規則・コーディング規約の徹底 ・モジュール化・関数化 ・コメント・ドキュメント整備 |
| 品質向上 | バグの発生を抑え、信頼性を高める | ・単体テスト・結合テスト・自動テスト ・コードレビュー ・静的解析ツール導入 |
| 再利用促進 | 同じコードを繰り返し使い,生産性をあげる | ・ライブラリ化・パッケージ化 ・共通モジュール設計 ・汎用的な関数・クラス設計 |
統計パッケージ開発は分析工学の実装形態
このBookでは統計パッケージは単なるコードの塊としてではなく,分析という行為を構造化し,標準化するための「部品(コンポーネント)」と位置づけています.
- 抽象化(Abstraction)
- インターフェース設計(API Design)
- モジュール化(Modularity)
- 再利用性(Reusability)
- バージョン管理
- テストと品質保証
こうした観点で統計分析パッケージを作ることで,分析者個人のスキルや経験に依存する度合いを減らし,属人的な分析の風土を少しでも軽減することが目標です. もちろん,実践には統計分析そのものへの深い理解も欠かせませんが,パッケージ化という観点では,ソフトウェア開発の思考から学べることも非常に多くあります.
そこで本章では,以下の流れで解説を進めていきます:
- ソフトウェア開発の思考の整理
- 分析パッケージ開発への応用
- 分析デザインパターンの紹介
この順序で勉強することで,分析業務を再現性・拡張性・品質保証の観点から扱う方法論を自分なりに確立できると期待しています.